安堵感を得る

信心があるかないか。今の世の中ない人が多いのではないだろうか。
神仏を信じるか信じないか。信じる人は信心があると言われるし、ない人は信心がない。
特定の宗教を熱心に信じていなくても、日本人であれば生活の中に多少なりとも信心があるのではないかと思う。
新興宗教もはびこる昨今、全く神仏を信じないか、妄信的に訳のわからない宗教にはまるか、どちらかだけがとりだたされる。
もともとは、神仏を信じること、崇拝することは、普通のことであって別に特別なことでもなかったと思う。神仏を信じることでご加護があり、それで救われると信じて疑わなかったであろう。
今はうさんくさいものもたくさんあるから、熱心な信心があると奇異の目で見られることもあると思う。信じる先が、昔からある宗教であれなんであれ、昔の人のように熱心に手を合わせること自体が少なくなったように思う。
それでも、日本人であれば、朝昼晩のご飯の前に手をあわせ、お盆お彼岸であれば祖先のお墓の前で手をあわせ、正月には神社やお寺の前で1年の利益を願って手をあわせる。
信心があると豪語しなくても、少しでも神仏の存在を信じるからこそ、自然に手をあわせるのではないかと思う。
特別何か利益を求めて、手を合わせるのではない。手を合わせることによって、なんとなく安堵感が得られる。それでいいのだと思う。
お金もなくて、行動の自由もなくて、行き詰まる生活が続く中で、人が生きていくためには、信心を持って自分を生きるために奮い立たせなくてはいけない時代もあったであろう。
今は昔よりもお金も行動の自由も、がんばりさえすれば手に入るようになった。
でもそれは自分の努力や才能もあるだろうけれど、常に誰かの支えがあったり、目に見えない力が働いて、おかげさまで今があるのだ。
そう信じることで、人は謙虚になり、日々に感謝して穏やかに過ごせるのだと思う。