信用されるという事

人からこの人は信じるに足りる人だと、判断されるにはどうしたらよいだろうか。
その人に対しての行動や自分の今まで培ってきた人となりを見てもらって、この人なら大丈夫と始めて信用されるのである。
誰しも根拠はなしに人を信じることはしない。周りの評判を聞いたり、自分で話しをしたり見たりして、判断する。
信用問題で一番顕著なものはお金の貸し借りだ。お金の問題はどんな時でもシビアである。お金の問題で例え家族であろうと、夫婦であろうと、破綻してしまうこともある。
例え100円でも、貸し借りしたままだと、小さいながらも遺恨となってしまう可能性だってある。人によってお金に対する執着の度合いは違うし、お金に対する価値観も千差万別だけれども、お金に対してきちんとしている人は、信じるに足りる人だと判断されるだろうし、ルーズな人は、信用を得ることは難しいと思う。
たかが数百円だから、いいだろうとかそういう甘い考えは許されない。たとえ数百円でも、借りたものは返さないと、その人に対する信用はどんどん失われていく。
信用を得ることは難しいけれど、信用を失っていくことは哀しいことだ。
信用されることも、信用されなくなることも、全て自分が撒いた種である。小さいことでも誠実に物事を積み上げていけば、意識して信用を得たいと思っていなくても、自然と他人に信用されるようになるだろう。
逆にどうでもいいや、と自分に甘んじて適当に物事をながしていくようであれば、信じるに値しない人というレッテルをいつの間にか貼られてしまうだろう。
他人から自分を信じてもらうには、それなりの根拠と実績が必要なのである。
世の中は自分以外は他人だらけだ。他人の中で社会活動をしていなければいけない。だから信じるに値する人をどれだけ周囲におけるかと、自分が周りにどれだけ信じてもらえるかで、世の中を渡っていくのだと思う。